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水素研究、20年の到達点(後) 腸内細菌から作用機序まで、水素研究に残された課題

東京大学名誉教授 唐木英明

 水素の健康への影響を考える際、見落とすことのできない存在がある。人の腸内に生息する腸内細菌である。
 水素ガスを吸入したり、水素水や水素ゼリーを摂取したりしなくても、人の体内では日常的に水素が作られている。食物繊維などを腸内細菌が発酵する過程で、水素が産生されるためである。
 しかも、その量を水素水などから摂取する水素量と比べると、興味深い違いが見えてくる。水素を外から摂取することに意味があるとすれば、単純な「量」の多寡だけでは説明できない可能性がある。
 水素研究の約20年を振り返る最終回では、腸内細菌が作る水素と外部から摂取する水素の違いを検討し、水素の安全性と有効性について、現時点でどこまで言えるのかを考える。

腸内細菌も水素を作る

 大腸には数百~数千種類、数十兆個ともいわれる細菌が生息している。
 これらの腸内細菌の一部は、食事から摂取した食物繊維や難消化性糖質など、人の消化酵素では分解できない成分を発酵する。その過程で短鎖脂肪酸や二酸化炭素などとともに、水素が発生する。
 腸内で作られた水素の一部は、別の腸内細菌によって利用される。一部は腸管から吸収されて血流に入り、全身を巡った後、肺から呼気として排出される。また、吸収されなかった水素は腸管からガスとして排出される。
 このため、呼気中の水素濃度を測定することで、腸内細菌による水素産生の程度を推定することができる。

 腸内で作られる水素量には大きな個人差がある。腸内細菌叢の構成、食事内容、特に発酵の材料となる食物繊維や難消化性糖質の摂取量などによって変化するためである。
 健康な人を対象にした研究では、腸内細菌によって産生され、呼気や腸管ガスとして排出される水素量の中央値は1日約30mgと推定されている。
 もちろん、これはすべての人が毎日30mgの水素を体内で利用しているという意味ではない。 腸内細菌によって作られた水素の一部は別の細菌に消費され、呼気や腸管ガスとして体外へ排出される。また、産生量には大きな個人差がある。それでも、外部から摂取する水素量と比較すると、この数字は興味深い。

水素水2Lでも理論上約3.2mg

 水素水から摂取できる水素量を考えてみる。
 20℃、1気圧の条件で、水に溶解できる水素の飽和濃度は約1.62mg/Lである。仮に、この飽和濃度の水素水を1日2L飲んだとすると、摂取する水素量の理論上限は約3.2mgとなる。
 実際には、水素は非常に抜けやすい。容器の材質、保存期間、開封してから飲むまでの時間などによって水素濃度は低下するため、実際の摂取量はこれより少なくなる場合がある。
 前編で取り上げた機能性表示食品の水素水の場合、1日摂取目安量300mLに含まれる水素分子は0.36mgである。水素ゼリーでは、機能性表示食品として届け出られた製品の1日摂取目安量に含まれる水素分子は0.9mgである。
 これらと、腸内細菌によって産生・排出される水素量の中央値約30mg/日を単純に比較すると、腸内で日常的に作られる水素の方がかなり多いことになる。

 では、人はもともと腸内で多量の水素を作っているのだから、水素水や水素ゼリーなどから少量の水素を摂取しても意味がないのだろうか。話はそれほど単純ではない。

「量」だけでは比較できない可能性

 腸内細菌が作る水素と、水素水や水素ガスなどによって外から取り込む水素には、大きな違いがある。その1つが、体内に入る「時間」である。
 腸内細菌による水素産生は、食事内容などによって変動するものの、基本的には長時間にわたって続く。比較的低い濃度の水素が慢性的に供給される形になる。
 これに対し、水素水を飲んだり、水素ガスを吸入したりすると、短時間に水素濃度が上昇し、その後低下する。
 つまり、腸内細菌による水素は「慢性的な供給」、外部から摂取する水素は「急性的なスパイク」と考えることができる。薬理作用では、単純な総摂取量だけでなく、どの程度の濃度に達し、それがどのくらいの時間続くのかが重要になる場合がある。

 水素についても、短時間に血中濃度が上昇すること自体が、何らかの生体反応を引き起こす可能性は否定できない。ただし、これも現段階では十分に解明された話ではない。
 腸内細菌が持続的に産生する水素と、外部から短時間に取り込む水素では、生体に与える影響が本当に異なるのか。異なるとすれば、どの程度の濃度や摂取量が必要なのか。こうした点については、さらに研究が必要である。

水素を作る腸内細菌の意味

 腸内細菌由来の水素については、それ自体が生体に有益な作用を持つ可能性も研究されている。 食物繊維などを多く摂取すれば、腸内細菌による発酵が活発になり、水素産生量が増えることがある。ただ、腸内細菌が作る水素だけを切り離して健康への効果を評価することは容易ではない。
 食物繊維を摂取すると、腸内では水素だけでなく、短鎖脂肪酸をはじめとするさまざまな代謝物が作られる。腸内細菌叢そのものにも変化が起こる。そのため、食物繊維による健康への影響が確認されたとしても、それをすべて水素の効果と考えることはできない。
 反対に、腸内細菌によって水素が大量に作られているという事実だけを理由に、外部から摂取する水素には意味がないと結論づけることもできない。水素が体内のどこで、どのような濃度で、どの程度の時間存在するのか。そして、それがどのような生体反応につながるのかを明らかにする必要がある。

作用機序はいまだ決着せず

 ここで、水素研究の出発点に戻ってみたい。
 2007年の論文で注目されたのは、水素が毒性の強いヒドロキシルラジカルを選択的に消去し、酸化ストレスによる細胞障害を抑えるという仮説だった。
 しかし、その後の研究では、水素の作用を単純な「活性酸素の消去」だけで説明することが難しいことも分かってきた。

 水素は反応性が低い分子であり、生体内でどのような分子と反応し、それがどのように細胞内の情報伝達につながるのかという問題が残る。
 そこで近年、別の作用機序が提唱されている。その1つが、細胞の抗酸化防御機構に関係するNrf2経路の活性化である。
 水素が直接すべての活性酸素を消去するのではなく、細胞が本来持っている抗酸化防御機構を活性化することで、間接的に酸化ストレスを抑える可能性が考えられている。
 さらに、水素の標的分子としてFe-ポルフィリン(ヘマチン)が関与するという説や、ミトコンドリアの電子伝達系に関わるタンパク質を標的とする説も報告されている。こうした仮説が正しければ、体内に存在する水素の「総量」だけでは効果を説明できない可能性がある。
 ごく短時間の水素濃度の上昇が特定のシグナルを作動させ、その後、水素そのものが体外へ排出された後も生体反応が続くことも考えられるからである。しかし、ここでも強調しておかなければならない。これらの作用機序は、いずれも研究途上の仮説である。
 水素が生体内のどの分子を最初の標的とし、どのような経路を通じて臨床的な変化につながるのかについて、現時点で統一された説明が確立しているわけではない。

「安全」と「効く」は別問題

 水素を巡る議論では、安全性と有効性を分けて考える必要がある。
 安全性については、現在までの研究から比較的良好なデータが蓄積している。水素は人の腸内でも日常的に大量に産生されている。水素ガス吸引の臨床研究でも、重篤な有害事象はほとんど報告されていない。水素水についても、通常の摂取量で水素そのものによる重大な安全性上の問題は知られていない。

 水素ガスについては可燃性があるため、濃度管理や機器の安全設計が不可欠であるものの、生体に対する水素そのものの毒性とは別の問題である。
 水素含有サプリメントについては、水素そのものだけでなく、水素を発生させるために使用する成分についても安全性を考える必要がある。こうした違いはあるものの、水素分子そのものについては、現在までのところ安全性上の大きな懸念は少ないと考えられる。しかし、「安全である」ことは「有効である」ことを意味しない。ここを混同してはならない。

研究は増えた、しかし――

 水素研究は2007年以降、急速に拡大した。
 基礎研究だけでなく、水素ガス吸引、水素水、水素ゼリー、水素含有サプリメントなどを使った臨床研究も数多く行われるようになった。
 対象となった領域も、心停止後症候群、脳梗塞、パーキンソン病、認知機能、呼吸器疾患、糖尿病、肥満、脂質代謝、運動時の疲労、睡眠、ストレスなど幅広い。
 複数の研究をまとめたシステマティックレビューやメタ解析も登場している。

 約10年前、水素水が大きな社会的議論になった当時と比較すれば、研究の量が増えていることは間違いない。だが、研究が増えたという事実だけをもって、水素の健康効果が確立したとは言えない。前回取り上げたパーキンソン病では、17人を対象にした小規模試験で有意な改善が報告されたものの、その後、約178人を対象にした多施設試験では同じ結果が再現されなかった。
 心停止後症候群を対象とした水素ガス吸入のHYBRID IIでも、副次評価項目では改善を示唆する結果があった一方、主要評価項目では統計的な有意差を確認できなかった。
 水素ゼリーの試験でも、水素を摂取した群で改善した項目があっても、プラセボ群との比較では明確な差を確認できないものがあった。
 これらは水素に効果がないことを証明した研究ではない。同時に、水素の効果が確立したことを証明した研究でもない。科学では、最初に有望な結果が出た後、より多くの人を対象に、より厳密な方法で追試し、同じ結果が再現されるかを確認する必要がある。水素研究の多くは、まさにその途中にある。

誰に、何を、どのくらい

 水素研究に残された課題の1つは、「水素」という言葉で多様な研究を一括りにできないことである。水素ガスを吸入する場合と、水素水を飲む場合では体内への入り方が違う。
 水素水と水素ゼリーでは摂取できる量や体内に入る速度が異なる。消化管内で水素を発生させるサプリメントでは、さらに条件が変わる。対象者についても、重篤な疾患を持つ患者と健康な人では、当然ながら意味が違う。心停止後症候群の患者に対する治療研究で一定の結果が得られたとしても、それがそのまま健康な人が日常的に水素水を飲むことの有効性を証明するわけではない。

 反対に、健康な人を対象にした試験で明確な効果が出なかったからといって、特定の疾患を持つ患者への医療的な可能性まで否定されるわけでもない。何を対象に、どのような方法で水素を投与し、どの程度の量を、どのくらいの期間使ったのか。そして何を評価したのか。水素の有効性を判断するためには、それぞれを分けて考える必要がある。

現在地は「有望だが発展途上」

 では、水素研究の約20年間をどう評価すればよいのだろうか。
 2007年の研究を契機に、水素は「単なる不活性なガス」ではなく、生体に何らかの影響を及ぼす可能性を持つ分子として研究対象になった。
 その後、基礎研究、動物実験、臨床試験が積み重ねられ、一部の疾患や健康指標について有望な結果も報告されてきた。研究対象は広がり、水素ガスだけでなく、水素水、水素ゼリー、水素含有サプリメントなど、摂取方法も多様になった。
 水素水についても、2016年前後に問題となった製品中の水素濃度には一定の改善がみられ、水素を機能性関与成分とする機能性表示食品も登場した。

 科学的な研究環境は、約10年前とは変わっている。しかし、作用機序はいまだ仮説の段階であり、臨床研究も小規模なものが少なくない。有望な結果が大規模試験で再現されなかった例もある。
 どの疾患や健康状態に対して、どの投与方法で、どの程度の量の水素を使えば、臨床的に意味のある効果が得られるのか。この問いに対する答えは、まだ十分には出ていない。

 安全性については比較的良好なデータが蓄積している。その一方、有効性については対象や摂取方法ごとにエビデンスの質を評価していく必要がある。したがって、水素の健康効果について、現時点で「効果がない」と一括して切り捨てることも、「効果が証明された」と一般化することも、どちらも科学的ではない。約20年に及ぶ研究から見えてきた水素の現在地を一言で表すなら、「有望だが発展途上」である。
 今後必要なのは、より大規模で質の高い無作為化比較試験を積み重ねること、研究結果の再現性を確認すること、そして水素が生体に作用する仕組みを明らかにすることである。研究の蓄積によって水素の可能性がどこまで確かなものになるのか。それとも、対象や条件が限定された効果にとどまるのか。その答えを出すのは、これからの研究である。

(了)

<プロフィール>
唐木英明(からき・ひであき)
東京大学名誉教授、農学博士。東京大学農学部獣医学科卒業。同大学教授、日本学術会議会員・副会長、内閣府食品安全委員会専門委員・専門参考人などを歴任。食品安全や健康食品の有効性・安全性評価について幅広く研究・発信している。現在、食の信頼向上をめざす会代表、健康食品試験法研究会代表。

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