水素研究、20年の到達点(前) 唐木東大名誉教授が最新研究を検証、「有望だが発展途上」
東京大学名誉教授 唐木英明
「水素水」が大きなブームとなり、その効果を巡って議論が沸騰したのは10年以上も前のことである。当時は、水素水の健康効果を強調する商品が相次いで登場する半面、その科学的根拠を疑問視する声も強かった。
2013年には『週刊文春』が、市販の水素水や水素関連サプリメントの水素濃度・水素発生量を独自に測定し、「本物」と「偽物」という刺激的な見出しで報じた。測定結果や評価を巡ってメーカー側が反論するなど、水素関連商品を巡る議論は過熱。その後、国民生活センターによる商品テストや消費者庁による行政処分へと問題は広がっていった。
では、その後、水素を巡る科学はどうなったのか――。当時、水素の医療応用の可能性を否定せず、健康食品としての科学的根拠は乏しく、研究は不十分との見方を示していた東京大学名誉教授の唐木英明氏が、その後の研究成果を踏まえ、水素研究の約20年を改めて検証する。(編集部)

「水素水論争」を大きく取り上げた『週刊文春』2013年2月28日号」
水素研究、2007年から20年
水素分子(H₂、分子状水素)が健康・美容分野で注目される大きな契機となったのは2007年。太田成男氏(当時・日本医科大学)らがNature Medicine誌に発表した論文で、水素が毒性の強いヒドロキシルラジカルを選択的に消去する抗酸化物質として働く可能性を報告した。
それから20年近くが経過した。水素を対象とする研究は続き、医療分野では水素ガス吸入、食品分野では水素水や水素ゼリー、水素含有サプリメントなど、さまざまな方法による研究が行われてきた。さらに近年では、人の腸内で細菌が作り出す水素についても研究が進んでいる。
ただ、研究が増えたことと、水素の健康効果が科学的に確立したことは同じではない。
現在までの研究を俯瞰すると、特定の疾患や状態について改善を示唆する報告がある一方、大規模な臨床試験で効果を確認できなかった例もある。水素が生体に作用する仕組みについても、いくつもの説が提唱されているものの、まだ仮説の段階にある。
水素研究の約20年間を振り返り、現在までに何が分かり、何が分かっていないのかを検証する。
作用の仕組み、今なお仮説
2007年に注目されたのは、水素がヒドロキシルラジカルを直接消去する抗酸化物質として働くという仮説だった。その後、研究が進むにつれて、水素の作用を説明する新たな仮説も登場している。
2022~23年には、細胞の抗酸化ストレス応答を担う「Nrf2経路」を水素が活性化するという仮説や、水素の標的分子が「Fe-ポルフィリン(ヘマチン)」ではないかとする仮説が相次いで発表された。2025年には、細胞内でエネルギー産生を担うミトコンドリアの電子伝達系に関わるタンパク質を標的とする説も報告された。しかし、これらはいずれも仮説にすぎない。
つまり、約20年間にわたって研究が続けられてきた現在でも、「水素がなぜ生体に作用するのか」という基本的な問いに最終的な答えが出たわけではない。
もう1つ、水素を考える際に重要なのが、どのような方法で体内に取り込むのかという問題である。
外から水素を供給する方法には、大きく4つある。水素ガスをそのまま吸入する「水素ガス吸引」、水素を溶かした水を飲む「水素水」、水素をゼリー状の基剤に閉じ込めて摂取する「水素ゼリー」、マグネシウムなどを利用して体内で水素を発生させる「水素含有サプリメント」である。
さらに、人の腸内には水素を産生する細菌が多数存在する。食物繊維などが腸内細菌によって発酵される過程で水素が作られており、人の体は水素関連製品を利用しなくても、日常的に水素にさらされている。
このため、水素の健康影響を考える場合、「水素」という言葉だけで一括りにすることはできない。水素ガスを肺から取り込むのか、水素水として腸管から吸収するのか、ゼリーやサプリメントから供給するのか、腸内細菌が作るのか。それぞれ供給経路も体内動態も異なり、研究の蓄積にも大きな差がある。

医療分野で進む水素ガス研究
5つの経路のうち、医療分野を中心に研究が進められてきたのが水素ガス吸引である。
水素ガス吸引は、専用の医療機器・生成器を用い、空気や酸素と混合した水素ガスを鼻カニューレやマスクから吸入する方法。肺から直接血中に取り込まれるため、飲用と比べて体内への到達効率が高いとされている。
慶應義塾大学などを中心に、心停止後症候群や急性期脳梗塞などを対象とした臨床研究が進められてきた。
2023年に発表された臨床研究のレビューでは、水素分子療法に関する81件の臨床試験、64件の研究を分析した。その対象は、心筋梗塞後や心停止後症候群などの心血管疾患、肺がん、肝臓がん、大腸がん、膵臓がんなどのがん、慢性閉塞性肺疾患(COPD)、喘息、新型コロナウイルス感染症による肺炎などの呼吸器疾患、脳梗塞、パーキンソン病、認知機能低下などの中枢神経疾患、さらに2型糖尿病や肥満などの生活習慣病まで幅広い。
ただし、さまざまな疾患を対象とする研究が存在することと、それぞれについて治療効果が確認されたことは別の話である。
水素ガス吸引について国内で行われた比較的規模の大きな研究の1つが、心停止後症候群による脳虚血患者を対象とした「HYBRID II」である。
これは複数の医療機関が参加し、対象者を無作為に分け、患者にも研究者にもどちらの治療を受けているか分からないようにする二重盲検法を採用したプラセボ対照試験である。「先進医療B」にも登録され、水素ガス吸入の有効性を検証する研究として注目された。
当初は360例の登録を計画していた。ところが、2020年以降、新型コロナウイルス感染症への対応で救急医療体制が逼迫したことなどから症例を十分に集めることができず、実際の登録は73例にとどまった。
2023年に公表された結果では、主要評価項目である神経学的転帰について、水素ガス吸入群と対照群との間に統計的な有意差は認められなかった。先進医療技術審査部会による最終評価も「C(既存治療と同程度)」だった。副次評価項目とされた生存率や社会復帰率などについては、改善を示唆する結果も報告された。
HYBRID IIはその後、先進医療Bから取り下げられたが、症例集積が困難だったという実務的な事情が主な理由とされている。研究チームは今後、さらに規模の大きな第Ⅲ相試験を目指す方針を示している。
現時点では、水素ガス吸引について大規模・多施設のプラセボ対照試験はまだ少なく、多くは小規模なパイロット研究である。認知機能障害などでは、大規模試験で有意な効果が確認されていない例もある。また、国内で薬事承認された適応症はなく、実際の利用は自由診療が中心となっている。
安全性についてはどうか。これまでの水素ガス吸引の研究では、重篤な有害事象の報告はほとんどない。
水素は血中のヘモグロビンと結合せず、毒性のある血液ガスを形成しない。約49%という高濃度の水素混合ガスが深海潜水で長年使用されてきた実績も、安全性を考える材料の1つとなっている。数時間規模の長時間吸入について安全性を調べた研究でも、重大な有害事象は報告されていない。ただし、水素は可燃性ガスである。酸素と一定の比率で混ざれば爆発性を持つため、医療機器として利用する場合には濃度管理や機器の安全設計が前提になる。
「生体への毒性が低い」という問題と、「水素ガスを扱う機器として安全か」という問題も分けて考える必要がある。
水素水ブームで何が問題になったか
医療分野で水素ガスの研究が続く中、一般消費者に「水素」という言葉を広く知らしめたのが水素水だった。
水素水とは、水素分子を溶解させた水の総称である。製造方法には、電気分解、金属マグネシウムと水の反応、高圧下での水素ガス溶解などがあり、ペットボトルやアルミパウチなどに詰めた商品と、家庭用生成器でその場で作るタイプの双方が流通している。
20℃、1気圧で水に溶ける水素の飽和濃度は約1.62mg/Lとされる。
国際水素標準化協会は2017年、「水素水は分子状水素を溶存している水または液体」とする定義と関連商品の認証基準を公表した。しかし、日本国内では現在も「水素水」に公的な定義や濃度基準はなく、製品によって水素濃度や品質が異なる。
水素水市場が急速に拡大していた2016年、国民生活センターは容器入り水素水10銘柄と生成器9銘柄を対象に商品テストを行った。

「国民生活センター水素水調査報告書」の表紙
そこで浮かび上がった問題の1つが、実際に消費者が飲む時点で、どれだけの水素が水に残っているのかという点だった。
「充填時」、「出荷時」などの水素濃度を表示する商品が多かったものの、開封時の実測値が表示値を下回るものが複数確認された。ペットボトル入りの2銘柄では水素そのものが検出されなかった。
水素は容器を開ければ徐々に抜けていく。蓋を閉めて保存した場合でも、5時間後には水素濃度が30~60%、24時間後には約10%まで低下した。生成器についても、取扱説明書に記載された想定濃度より実測値が低い例があり、生成後1時間でコップ内の水素濃度が50~60%まで低下した。
もう1つの問題が広告だった。
国民生活センターの調査では、「悪玉活性酸素を無害化する」、「アトピーに効く」などの効能をうたう表示・広告が確認され、薬機法や景品表示法に抵触するおそれが指摘された。
当時の国立健康・栄養研究所の「『健康食品』の安全性・有効性情報」でも、水素水について、ヒトでの有効性を裏付ける信頼できる十分なデータが見当たらない旨の記述があった。
ただ、この表現は当時、水素水だけに用いられていたものではなく、複数の健康食品素材について使われていた定型的な記述だった。また、当時の同サイトでは、電気分解で作るアルカリイオン水と水素水が明確に区別されていなかった。その後、記述は見直されている。
つまり、2016年前後の水素水問題には、少なくとも「水素そのものに健康効果があるのか」という科学上の問題と、「商品に実際に水素がどの程度含まれているのか」という品質上の問題、さらに「科学的根拠を超えた効能を広告していないか」という表示上の問題が存在していたのである。
行政処分も相次ぐ
実際、水素関連商品を巡っては行政処分が相次いだ。
2016年3月、消費者庁は水素水などを主力商品とするネットワークビジネス事業者に対し、特定商取引法違反を理由に新規勧誘などの業務を9カ月間停止する命令と指示処分を行った。「1カ月飲み続けるとどんな病気もよくなる」、「がんにも効く」などと説明していたとされた。
2017年3月には、水素関連食品を販売する3社に対し、効果を裏付ける合理的な根拠がないとして、景品表示法に基づく措置命令が出された。同年6月には、水素水の販促物を巡り、薬機法違反の疑いで食品スーパーの社員らが書類送検された。
さらに2021年には、水素水生成器を販売・レンタルする4社が、「老化防止」、「疾病予防」などの表示について合理的根拠が認められないとして、景品表示法に基づく措置命令を受けた。
水素を巡る研究が続くこととは別に、その時点の科学的根拠を超えた効果を商品広告でうたう問題も続いていたのである。
その後、製品は改善
ただ、水素水を巡る状況が2016年当時のままというわけでもない。
国民生活センターの商品テスト後、多くのメーカーはキャップと水面の間の空間を減らすなど、水素が抜けにくくなるよう容器などを改良した。
2023年の調査では、市販製品はおおむね表示どおりの溶存水素量を示すことが報告されている。脱気した状態で保存すれば5日間以上水素が保持される一方、脱気しない場合や再密閉できないアルミ缶型では1~3日程度でほぼ検出されなくなった。開放した500mL容器では、水素が半分になるまでの時間はおよそ2時間だった。つまり、「水素は抜けやすい」という性質そのものは変わらないものの、製品側には一定の改善がみられている。
水素も機能性表示食品に
制度上の状況にも大きな変化があった。
2016年の商品テスト当時、水素を機能性関与成分とする機能性表示食品は存在しなかったが、2023年3月、「高濃度水素ゼリー」が「睡眠」、「ストレス」の機能性を表示する機能性表示食品として届出公表された。水素分子を機能性関与成分とする国内初の事例とされる。
さらに2026年1月には、「水素たっぷりのおいしい水」が、水素水として初めて機能性表示食品の届出公表された例とされている。
届出表示は、「中程度までの酸化ストレスがある健常人の日常生活での一時的な疲労感を軽減する機能」である。1本300mLに水素分子0.36mgを含み、1日1本を摂取する設計となっている。
約10年前に商品の科学的根拠や広告表示が大きな問題になった水素水が、現在では機能性表示食品として届け出られるまでになった。では、これは水素水の科学的評価が大きく変わったことを意味するのだろうか。
ここは慎重に見る必要がある。
同商品の根拠となったのは、2018年に発表された高濃度水素水と通常の水を比較したクロスオーバー試験である。日常作業や精神作業による疲労への影響を23人で検討した。
主解析となる23人全体では、疲労感を示す指標の変化についてプラセボとの間で統計的な有意水準には達していない。統計的に有意な改善が確認されたのは、対象を9人に絞った層別解析だった。
しかも、この商品を届け出た企業は、2016年の国民生活センターの商品テストの対象企業の1社であり、2017年には水素関連製品の効能表示について景品表示法に基づく措置命令を受けた3社のうちの1社でもある。同じ企業、同じ水素関連製品というカテゴリーが、約9年を経て機能性表示食品の届出に至ったことになる。
ただし、機能性表示食品として届出公表されたことと、水素水の有効性そのものが科学的に確立したことは同義ではない。その判断には、個々の臨床研究で何が確認され、より規模の大きな試験や複数の研究を統合した解析で、その結果が再現されているのかを見る必要がある。
水素水については、この約20年間に、パーキンソン病、脂質代謝、運動時の疲労、新型コロナウイルス感染症など、さまざまな対象で臨床研究が行われてきた。小規模な試験で有望な結果が報告された後、より大きな試験では効果を確認できなかった例もある。反対に、複数の研究をまとめて解析することで、一定の傾向が見えてきた分野もある。
水素研究の現状を知るには、こうした「肯定」と「否定」のどちらかだけを見るのではなく、研究の規模や質、何を対象として、何を評価した試験なのかを一つずつ見ていく必要がある。
次回は、水素水を中心とする臨床研究を取り上げ、この20年間の研究で健康への効果がどこまで確認されたのかを検証する。
(つづく)
<プロフィール>
唐木英明(からき・ひであき)
東京大学名誉教授、農学博士。東京大学農学部獣医学科卒業。同大学教授、日本学術会議会員・副会長、内閣府食品安全委員会専門委員・専門参考人などを歴任。食品安全や健康食品の有効性・安全性評価について幅広く研究・発信している。現在、食の信頼向上をめざす会代表、健康食品試験法研究会代表。
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