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神代から令和まで健康食品のルーツを探る~歴史から見えてくる課題は何か?(11)

(公財)食の安全・安心財団理事長 東京大学名誉教授 唐木英明

<江戸患いと呼ばれた脚気>

 何かの食品を食べると元気が出る、病気にならない、病気が治るなどの「食薬同源」に関する話は昔から後を絶たない。

 食事は空腹を満たすだけでなく、健康を守るためにも必要であることは、昔から多くの人が信じていたのだ。それが単なる迷信ではないという事実がある。

 昔から、多くの人が苦しんでいた脚気(かっけ)という病気がある。神経の炎症を起こして手足がしびれ、心不全が起こって体がむくみ、死亡することもある。江戸時代は脚気の病人が多かったため、「江戸患い」と呼ばれ、明治時代から戦後まで、年間1万人から2万人が脚気で死亡し、幼児の死亡も多かった。

<米飯からパン、麦飯へ>

 明治政府は欧米の仕組みを取り入れて、陸軍と海軍を創設した。軍備の近代化を図ったのだが、兵士の間で流行したのが脚気で、陸海軍とも兵士の4分の1ほどが脚気で倒れていたという。

 そこで、軍医だけでなく、医学界に求められたのが脚気の原因と治療法の研究だった。しかし、その成果はなかなか出なかった。

 そのなかで、海軍軍医の高木兼寛は、兵士が食べていた和食のタンパク質不足が原因と考え、1884年に、白米の代わりにパンを主食にする洋食に切り替えた。その効果は劇的で、2年後には脚気になる海軍兵士はほとんどいなくなった。その後、兵士はパンを嫌ったため、麦飯に切り替えられたが、これも大きな効果があった。パンの原料の麦に脚気を予防し、治療する効果があったのだった。

<白米主義を貫いた軍隊>

 高木の功績は非常に大きいものであり、それがすぐに認められて、脚気の治療に取り入れられたのかというと、そうではなかった。

 当時の日本は、ドイツ流の「科学に基づく医療」を取り入れることに熱心で、理論が分からないけれど結果が出たという「経験に基づく医療」を評価する医学関係者はほとんどいなかった。同じ理由で、「食薬同源」という考え方も排除された。

 そのため、陸軍は相変わらず白米中心の和食を続けた。それは、陸軍軍医のトップだった森鴎外が麦飯に反対したこともあったが、それだけではなく、兵士にとって白米のご飯は何よりのご馳走だったため、麦飯を嫌ったという事情もある。

 厳しい生活が続く軍隊では、食事の「楽しみ」という機能を無視できなかったのだ。その結果、1894~95年に行われた日清戦争の戦死者の約2割に当たる4,000人が脚気で死亡し、その後も脚気になる兵士は続出した。陸軍が白米に麦を3割加える食事に変更して脚気を減らしたのは1913年だった。 

(つづく)

<プロフィール>
1964年東京大学農学部獣医学科卒。農学博士、獣医師。東京大学農学部助手、同助教授、テキサス大学ダラス医学研究所研究員などを経て東京大学農学部教授、東京大学アイソトープ総合センターセンター長などを歴任。2008〜11年日本学術会議副会長。11〜13年倉敷芸術科学大学学長。専門は薬理学、毒性学、食品安全、リスクコミュニケーション。

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