もう1つの紅麹サプリ事件(前) 評価と救済の線引きが生む「見えない被害」
小林製薬が引き起こした紅麹サプリメントを巡る健康被害問題は、単なる成分リスクや企業対応の是非にとどまらない。評価の枠組みが整備される過程で、どの症状が「被害」として可視化され、どの訴えが制度の外に置かれるのか――その構造自体が、かつての旧「茶のしずく石鹸」事件と重なって見える。本稿は、診断基準や評価対象が形成される過程で生じる“もう1つの事件”、すなわち救済からこぼれ落ちる被害の落とし穴に光を当てる。
旧・茶のしずく事件が残した重い問い
2011年5月、㈱悠香(福岡県)が販売していた旧「茶のしずく石鹸」の自主回収が始まった。もう15年近く前のことになるが、きのうのことのように思い出される。筆者は当時、多くの被害者と接触し、被害救済に向けた座談会も開催した。そして、原因不明のアナフィラキシーショック症状に悩む被害者から多くの情報提供が寄せられた。アレルギー学会が設けた基準に達することなく補償の対象から外されることとなり、泣き寝入りせざるを得なくなった被害者の方の相談も受けた。
旧・茶のしずく事件からすでに多くの歳月が経過したが、健康被害と救済の在り方を考える上で、この事件が投げかけた問いは今なお重い。
同件は、石鹸に含まれていた加水分解小麦末(グルパール19S)を原因として、それまで小麦アレルギーの既往がなかった多数の消費者が、経皮・経粘膜感作により即時型小麦アレルギー(小麦依存運動誘発アナフィラキシー〔WDEIA〕を含む)を発症した事案である。石鹸という日常的に使用される製品を通じて感作が成立し、以後は小麦摂取、運動、さらには呼気や湯気、調理臭といった極めて低い曝露でも反応する重篤な体質へと変化した点が、大きな特徴とされた。
診断基準が「救済の門番」となった事件
この事件の本質は、単なる製品事故ではない。「化粧品による新規アレルギー疾患の大量発生」という、当時としては想定されていなかったリスクが現実化した点にある。医療現場では2008年末には異変が認識され、10年初頭には行政や国民生活センターにも情報が入っていたとされるが、重大事故としての迅速な公表や注意喚起は行われなかった。
被害の顕在化と並行して、診断と救済の枠組みが構築されていく過程で、別の問題が生じた。日本アレルギー学会が2011年10月に公表した診断基準が、補償や訴訟の場面で事実上の線引きとして機能するようになったのである。
旧・茶のしずく事件では、日本アレルギー学会が示した診断基準のうち、特定の検査結果が重要な判断材料として扱われた。その結果、明確な症状があり、経口負荷試験では陽性で、医師の臨床的判断では小麦アレルギーと考えられる事例であっても、プリックテストが陰性であるという1点をもって「茶のしずく由来」と診断されないケースが生じた。
厚生労働省の資料には、使用中止後は抗体価が低下し、陰性化する可能性があるため、過去の診断には用いられない旨が明記されていたにもかかわらず、この注意書きが十分に反映されたとは言い難い運用がなされていたとされる。
この過程で生じたのが、「診断基準」が本来の医療判断の補助を超え、補償・訴訟の適格性を左右する境界線として機能してしまったという構造である。医師が「診断基準から外れると裁判に影響する」として診断名の記載を避ける事例や、患者が医療よりも訴訟適格性を優先せざるを得ない状況が生まれたことも指摘されている。
本来、通常型WDEIAと、茶のしずく由来小麦アレルギーとでは、回避行動や生活指導が異なるにもかかわらず、診断が曖昧にされることで、適切な医療を受けられない恐れが生じた。ここに、「医療」と「裁判」の論理がねじれた構造的問題が存在していた。
さらに補償対応では、「確定診断例」のみを対象とし、「疑い例」や「陰性だが症状がある例」は原則対象外とされる線引きが行われた結果、検査費用、投薬・通院費、調理器具の買い替え、社会生活の制限といった長期的・高額な負担を個人が背負い続ける実態が生じた。
評価対象の変化が生む「見えない被害」
こうした過去の構造を踏まえると、紅麹サプリメントを巡る一連の動きは、別の文脈を想起させる。
消費者庁が昨年9月4日に開催した「第1回食品衛生基準審議会食品規格・乳肉水産・伝達性海綿状脳症対策部会」では、プベルル酸を議題とした会合が行われた。この場において、それまで公式にはほとんど言及されてこなかった「胃毒性」に関する所見が、いきなり公表された。
それまで、プベルル酸による健康影響として主に注目されていたのは、尿細管間質性腎炎だった。議論や報道も、腎障害を中心に展開されてきた経緯がある。その中で、新たに胃毒性という別の臓器影響が提示されたことは、評価対象の枠が変化し得ることを示す出来事である。
さらにその後の取材によって、厚生労働省がプベルル酸単独の毒性に限らず、他成分との相乗毒性の可能性についても否定しない立場を取っていることが明らかになっている。これは、健康影響の評価が固定的なものではなく、知見の集積とともに変化し得ることを示している。
次回は、評価の枠組みが確定する前段階で、どの症状が「可視化」され、どの被害が制度の外に置かれ得るのかを、旧・茶のしずく事件との比較を通じて検証する。併せて、紅麹サプリ被害救済弁護団が訴訟によらず、交渉を軸に被害救済を進めている現状と、その背景にある考え方を整理する。
【田代 宏】
(つづく)
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