永井克也大阪大名誉教授に聞く(2) 自律神経による生理機能調節と体内時計の謎を解明
――少し時代をさかのぼってみたいのですが、そもそもそういう研究を先生がおやりになろうとしたきっかけは?
永井 私の母方の祖父・谷口腆二(=写真右)は東大医学部を卒業して、英国留学しグラスゴー大学で細菌学の研究をした後、阪大医学部に細菌学(黴菌学)教室を創設するべく東大伝染病研究所(現医科学研究所)から阪大医学部に赴任しました。そのお弟子さんたちの基礎医学の研究者たちが正月毎に祖父の家に集まり、楽しそうに話しているのに接していました。
東大の先輩である今村荒雄先生(後に阪大総長)と、大阪大学微生物病研究所を創設した祖父は、神戸港を控えて西にもワクチン製造財団が必要だと考えて大阪財界の山口玄洞氏より多額の寄付を得てワクチンメーカーである阪大微生物病研究会(現、BIKEN財団)も創設しました。
そのようなわけで、私は基礎医学の研究についても興味を抱いていました。
大阪大学医学部は、元々生化学が盛んで、大阪大学で代謝や生化学の研究者の講義を受けていました。その講義のお一人が私の師匠(大学院の主任教授)である須田正巳先生です。また、その他、生化学の錚々たる教授方が講義をされていたので、須田先生の下で酵素の研究を始めたのがきっかけです。
――先生はそのような研究をやるために大阪大学に入られたのですか?
永井 高校生の頃はそこまで考えておりません。医学の研究をしたいとは思っていて、臨床ができればいいというぐらいの考えでした。
――しかし大学生活が青医連の運動と重なってしまった。そのことが先生の人生に及ぼした影響というのはありますか?
永井 阪大なんかまだ幸せだったのです。東大とか京大は、大学院も受けさせてもらえなかった。それで医局に残れなかった。東大なんかみんなパージですよ。 我々の学年で、卒業した東大の医者は全部放り出されたのです。当時の東大生は内科の教授を殴ったりしていましたからね。
――その人たちはどうなったのでしょうか?
永井 田舎の個人病院などで院長として優秀な医療をされていましたね。私たちは医局に入ったらダメだと言われたため、同期80人中14人ぐらい基礎医学の大学院に行ったのです。今では考えられませんが――。
――基礎に行かれたことが、後のいろいろな研究の土台を作ることにつながったというわけですね。先生にとって、かえって幸いしたということもあるのでしょうか?
永井 そうですね。私としては幸せでしたね。上記のように基礎医学の研究に入った同級生が多かったのでみんな競い合っていますから、基礎医学の大学院時代には一緒に集まって勉強会を開きました。お前は一体何を研究してるのだなどと、自分らの研究の話をお互いにしたりしました。大学時代は「無給医の会」とかいうのを作りましてね。
――実は、私は長崎県佐世保市の生まれなのです。ですから、小学校4年生の時に、エンタープライズの寄港反対集会みたいなことが港の方でありました。ちょうど私が市街を一望できる小高い山の上で友だちと遊んでいる時に、港の方向に満艦飾の旗がはためいているのを見て、あまりにもきれいだったので皆で驚きの声を上げたのを覚えています。その時は何が何だか分からなかったのですが、めいめいの旗印の下に、地元の労働者や各地から集まった反対派の学生たちがワイワイやっている姿だったというのが、後になって分かりました。当時は、多くの学生が佐世保を目指して西下したそうですね。しかし途中で逮捕された学生も少なくなかったと聞いています。
永井 オルグですね。
――そもそも、そういう争いというのは、青医連の運動などが火付け役になったところもあったのでしょうか。いわゆる安保闘争ですよね。
永井 その流れもあり、私らはね、難波から梅田まで御堂筋をデモしました。フランスデモと言って、女性も一緒に歩きました。
――なんだか歴史を感じますね。
永井 やっぱりそういう時代ですから、自分は将来何をするのだということを学生時代は真剣に考えましたね。
自分たちの医学の制度もこの先どうなるか分からない。みんな教授をやめろと学生に突き上げられて、京大などでは、教授会は祇園のお茶屋でやったという噂が流れました。キャンパスはゲバルト学生によるバリケードで封鎖されていますから、医学部ではやれなかったのです。京都はお茶屋さんが多いですからね。そういう時代です。東大はもうご存じのとおり、大変でした。安田講堂に残った医学部の学生は10人もいなかったと思いますけど、他は全部、全国から来た他の大学生たちで占拠された。
私たちは医学部の学生ですから、そこまで興味は持たなかったのですが。東大・京大がものすごく先鋭的で、阪大にオルグに来るわけです。お前らは日和っているぞ!もっと本格的にやれ!と。そういう時代でしたね。だからやっぱり自分の生きざまを真剣に考えましたね。だからそういうこともあって、ひとつ基礎に打ち込むきっかけになりました。
大体は普通医学部に入ったら、医者になって儲けるというね、そういう生活をするようなことを考えますけど、我々の時代はもっとラジカルで、もちろん同級生の中に革マルや中核に行くような人は1人もいないのですが、ある程度のストはやるのですね。
――そういう時代を潜り抜けて来た人たちというのは、何というか、人間の根源的な尊厳みたいな、何かそういうものに触れた経験をお持ちなのではないですか。
永井 憧れるようなね。だから歴史に残るような仕事がしたいという気概がありましたね。実際にはそんなことはなかなかできませんけれども。
――先生が画期的な成果を上げて行くまでには、そのようなドラマがあったわけですね。
永井 そこで基礎研究では糖新生に関する研究に入っていったのです。25℃の室温で飼っている動物には日周(24時間の)リズムがあるというので、体内時計の機構の研究もやりました。どうして寒いところに入ったら酵素活性が上がるのか。じつはそこには、自律神経が関係しているという証拠を見出したのです。
自律神経の中でも交感神経は、特に寒い時には酵素の活性のコントロールに非常に重要なことが分かりました。もちろん遺伝子メッセンジャーRNA(mRNA)ができてタンパク質が出来るのですが、そういうことが自律神経で起こるということにすごく感銘を受けまして、自律神経について研究したい、自律神経がどんなことをしてるのか、生理機能調節について研究したいという思いを強くしました。
あともう1つは体内時計です。体内時計のメカニズムの研究をやりました。体内時計というのが脳視床下部の視神経交叉の真上にあるニューロンの塊にあるのですけど、そこを破壊するとリズムが消えるのですね。私たちはラットの摂食のリズム、食欲の日周リズムがそこを破壊することによって消えるということを初めて確認しました。我々の論文が世界で最初なのです。それを報告しました。
(つづく)
【聞き手・文:田代 宏】
(冒頭の写真:1919年~21年グラスゴー大学病理細菌学教室・主任C.H. Browning教授(写真左)の元に梅毒のワッセルマン反応についての研究のために留学したときの谷口腆二、文中の写真:1968年エンタープライズ寄港阻止・長崎県佐世保市の平瀬橋付近でデモ隊に放水する機動隊/写真提供:毎日新聞社/アフロ)
関連記事:永井克也大阪大名誉教授に聞く(1)
<筆者プロフィール>
1943年2月10日生
1967年3月 大阪大学医学部卒業(1968年医師免許)
1972年3月 大阪大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)
1967年4月〜1968年3月 大阪大学医学部附属病院研修医
1972年4月 大阪大学蛋白質研究所助手(代謝部門)
1974年8月〜1976年10月 米国シカゴ大学関連病院客員博士研究員(内科、主任L.A.Frohman教授)
1977年4月 愛媛大学医学部助教授(生化学第二)
1980年4月 大阪大学蛋白質研究所助教授(代謝部門)
1995年12月 大阪大学蛋白質研究所教授(代謝部門)
2000年4月〜2004年3月 大阪大学蛋白質研究所所長
2006年3月 定年退職(大阪大学名誉教授)
2007年4月 ㈱ANBASを設立。現在に至る。
<所属学会•協会>
日本肥満学会(名誉会員)、国際時間生物学会(理事)、
NPO法人 国際医科学研究会(理事)、
(一社)サイエンティフィックアロマセラピー協会(代表理事)