エフェドリン混入問題の深層 【寄稿】健康食品巡る規制のパラドックス、求められる科学的なリスク評価の導入
東京大学名誉教授 唐木 英明
はじめに:技術進歩が暴いた「見えざるリスク」
健康食品への医薬品成分エフェドリンの意図せざる混入問題は、食品安全規制が直面する新たなパラドックスを浮き彫りにした。RIZAP、アサヒグループ食品、富士フイルム、大正製薬といった著名企業が相次いで製品の自主回収を発表したのだが、この対応には奇妙な点があった。混入を公表した全ての企業、そして発見の端緒となった行政機関までもが、検出されたエフェドリンの量はごく微量であり、健康への影響はないと明言していたのである。
健康被害の恐れがないにもかかわらず、自主回収に至った理由は、①現行法規の厳格な「ゼロ・トレランス(不寛容)」原則、②紅麹問題以降極度に高まった消費者の不安と企業の危機管理意識、そして、③これまで見過ごされてきたレベルの化学物質を可視化する分析技術の飛躍的な進歩、という三つの要因が複雑に絡み合っている。エフェドリン混入は、単なる一過性の品質管理上の問題ではない。それは、科学技術の進歩が、実質的な健康リスクが存在しない場面で、いかにして規制上および社会的な「危機」を生み出しうるかを示す象徴的なケーススタディである。
事実経過:エフェドリン混入経路の解明
問題の経緯は、ウェルネスデイリーニュースの石川太郎記者が詳細に報じているが、発端は茨城県が2024年度に実施した、いわゆる健康食品を対象とする定例の試買検査であった。この検査は、無承認無許可医薬品の流通を防止する目的で毎年行われている。決定的な要因となったのは、茨城県が2024年度から検査機器を更新し、分析感度が飛躍的に向上したことである。県の担当者は、「(以前の機器で検査した場合)この値であれば不検出。機器を替えたことで、医薬品成分の検出に至っている」と明言しており、技術の進歩が直接の引き金となったことがわかる。
この検査で買い上げられた36品目のうち、タブレット状製品1品目から、1グラムあたり0.51μgのエフェドリンが検出された。茨城県はこの濃度を「人の健康に影響を及ぼすような値ではない」と判断し、製品名を公表しない措置をとったが、販売事業者を管轄する自治体へ情報提供を行った。これにより、問題が業界全体へと波及していくこととなる。
汚染源の追跡:製造工程における交差汚染
行政から連絡を受けた各社が調査を進めた結果、混入があったのは、松浦薬業㈱が製造し、㈱タカマが供給した「サラシアオブロンガ・エキス末 B」の一部ロットであった。混入の原因として有力視されているのが、製造ラインにおける交差汚染である。松浦薬業では、同じ製造ラインを用いて、麻黄を含む漢方薬「葛根湯」のエキスも製造していた。麻黄の主成分はエフェドリンであり、サラシアエキス末の製造前にラインの洗浄が不十分であったため、微量のエフェドリンが残留し、混入した可能性が指摘されている。これは、意図しない混入の典型的な事例と言える。
「ごく微量」の定量的評価:科学的リスクと法的基準の乖離
各社が公表した混入量は、薬理学的な観点からは極めて微量であった。例えば、アサヒグループ食品は、自社製品の1日摂取目安量に含まれるエフェドリン量が、医薬品としての1日最小有効量である12.5mgの約3000分の1、オリヒロは約10万分の1と報告し、ともに健康への影響は考えられないとしている。しかし、法的な観点では、この「ごく微量」という事実は意味を持たなかった。原材料供給元のタカマは、検出値が定量下限値(0.33μg/g)を上回ったことを認めて、「定量下限値を越えた医薬品成分の混入は許されるものでなく、今回の自主回収に至りました」と表明している。この声明は、科学的なリスク評価と、検出の有無のみを問題とする法的基準との間に存在する深刻な乖離を象徴している。エフェドリンは風邪薬などに広く利用される一方、高濃度では覚醒剤原料にもなり、過去には違法なダイエット食品への使用事例もあるなど、その二面性が事態の社会的受容をさらに複雑にしている。
法的枠組み:薬機法の譲れない一線
健康への影響がないにもかかわらず行われた大規模な自主回収。この一見過剰とも思える対応は、厳格な法規制と、日本社会を震撼させた紅麹問題がもたらした特殊な社会心理状況下における、企業の合理的かつ不可避な判断であった。薬機法において、健康食品は「食品」に位置づけられ、食品への医薬品成分の配合を厳しく禁じている。特に重要なのが、「医薬品の範囲に関する基準」であり、これによれば、「専ら医薬品として使用される成分本質」が製品に含有されている場合、その量や表示される効能効果にかかわらず、原則として「医薬品」とみなされる。エフェドリンはこの「専ら医薬品」に該当するため、たとえ微量であっても、それが検出された時点で、当該製品は法的に「無承認無許可医薬品」という扱いになる。
着色料や香料といった食品添加物としての微量使用には例外規定が存在するが、それは薬理作用が期待できない範囲での意図的な使用に限られ、今回の意図せぬ混入には適用されない。したがって、エフェドリンが検出された瞬間、企業は法的に不適合な製品を市場から回収する義務を負うことになったのである。
食品の自主回収は、食品衛生法や食品表示法への違反、またはその恐れがある場合に実施される。無承認無許可医薬品に該当する製品の販売は、これらの法律に抵触するため、回収は法的な要請であった。回収判断の主たる基準を「消費者への健康被害の可能性」の有無に置くべきとの考え方もあるが、本件においては、健康被害の有無を議論する以前に、「法規制への違反」という事実そのものが、回収を不可避とする十分かつ最優先の理由となった。実際に、オリヒロなどの企業は、健康への影響はないとしつつも、「コンプライアンス重視」や「お客様に安心して商品をご使用いただく」といった点を回収理由に挙げており、この問題が医学的なものではなく、法規制と企業の社会的責任の問題であったことを示唆している。
紅麹事件の影:信頼の危機がもたらした行動変容
しかし、この迅速かつ大規模な回収劇の背景を、法規制だけで説明することはできない。その背景には、「紅麹の影」が色濃く存在している。紅麹問題は、サプリメントの摂取との関連が疑われる死亡者や多数の健康被害者を生み出し、社会に大きな衝撃を与えた。この事件で小林製薬が受けた最も厳しい批判の一つが、社内で問題を認識してから公表・回収に至るまでに約2カ月を要したという対応の遅れであり、これが企業による隠蔽ではないかとの疑念を招いた。この一件は、健康食品業界全体、特に機能性表示食品制度に対する消費者の信頼を根底から揺るがす事態へと発展した。
この未曾有の危機を受け、企業のリスク認識は根本的に変化した。エフェドリンの混入が発覚した企業にとって、たとえそれが健康に影響のない微量であったとしても、「健康食品から医薬品成分が検出」という事実は、第二の紅麹問題へと発展しかねない極めて重大なレピュテーションリスクを意味した。企業の意思決定プロセスを考察すると、この回収は、目の前にある(実質的に存在しない)健康リスクを管理するというよりも、将来起こりうる「レピュテーション危機」を未然に防ぐための、先を見越した危機管理戦略であったことがわかる。紅麹問題は、健康食品に関するいかなる安全問題に対しても、社会の許容度を極めて低いレベルにまで引き下げた。消費者の安全意識は、かねてから「ゼロリスク」を求める傾向が指摘されているが、この事件を経て、さらに過敏な状態となった。このような状況下で、企業にとって、迅速かつ包括的な自主回収にかかる財務的コストは、対応の遅れや不透明さが招きうるブランド価値の毀損、株価の下落、そして行政からの厳しい処分といった長期的な損害に比べれば、はるかに小さいと判断されたのだろう。各社の対応は、他社の危機から学び、自らの潔白さと社会的責任を断固として示すための戦略的な行動であり、小林製薬の対応への反面教師として行われたものと推測される。
来るべき波:「意図せぬ混入」の常態化
分析化学の進歩は目覚ましく、液体クロマトグラフィータンデム質量分析法(LC-MS/MS)などの技術は、従来検出不可能であったng/mL(10億分の1グラム)以下の極微量な物質さえも特定可能にしている。これは、これまで「存在しない」とされてきたレベルの交差汚染が、次々と「存在する」ものとして可視化される時代の到来を意味する。製造ラインの共用、原材料の取り扱い、あるいは環境由来の不可避な混入は、今後ますます頻繁に発見されるだろう。この問題への対策の基本は、GMPの遵守である。紅麹問題を受けて、サプリメント形状の製品に対するGMPが実質的に義務化されたことは大きな前進である。しかし、GMPの目的は汚染を「最小化」することであり、分析的に絶対的なゼロを達成することではない。専用ラインの設置、厳格な洗浄プロトコル、サプライヤー管理といった対策は汚染リスクを大幅に低減させるが、分子レベルでの完全な排除を保証するものではない。したがって、検出技術の感度が上がり続ける限り、GMPを遵守していても「意図せぬ混入」が発見される事例は続出する可能性が高い。
検出の先へ:科学的リスク評価の導入
「毒性は量で決まる」とは、パラケルススが提示した毒性学の基本原則である。ごく微量の検出をもって一律に違反とする現行の法的枠組みは、この科学的真理に反する。この矛盾を解決するための、より精緻で科学的なアプローチが、医薬品の安全性評価で確立されている「許容一日曝露量(Permitted Daily Exposure: PDE)」である。これは、「ある物質を、人が一生涯にわたって毎日摂取し続けても、健康に有害な影響が出ないとされる一日あたりの最大量」を指し、動物実験などで有害な影響が見られなかった最大の投与量である「無毒性量(NOAEL)」を基に、動物とヒトの種差や個人差を考慮した安全係数(通常100倍以上)を適用して、科学的に算出される。
エフェドリンのように豊富な毒性データが存在する医薬品成分の微量混入評価において、PDEは極めて有効な指標となる。データが乏しい、あるいは未知の化学物質に適用される「毒性学的懸念の閾値(TTC)」とは異なり、PDEは既存の科学的知見を最大限に活用するアプローチである。PDEのような健康ベースの暴露限界値を導入することは、「健康に被害がない化学物質については、検出されても無視するというコンセンサスが必要ではないか」という本質的な問いに対する、最も科学的で合理的な回答となりうる。これにより、規制当局は、意図的で悪質な有害物質の添加と、不可避で健康上問題のない微量混入とを区別し、科学的根拠に基づいた合理的な対応をとることが可能になる。
しかし、このアプローチの導入には、大きな困難が伴う。それは、消費者が食品の安全性に対して「ゼロリスク」を強く求める傾向である。汚染物質に「許容レベル」を設けるという考え方は、メディアや一部の消費者団体に「食品に毒を入れることを容認する」と誤解され、強い反発を招く可能性がある。食品添加物や残留農薬の安全基準として、PDEと同様の考え方のADI(許容一日摂取量)が使用されているが、これに対しても同様の反発が強い。紅麹問題で高まった食の安全に対する不信感は、いかなる「規制緩和」と見なされかねない動きに対しても、政治的な逆風となるだろう。したがって、PDEのような枠組みの導入成功の鍵は、科学的な正当性以上に、国民の理解と信頼を醸成するための、長期的かつ戦略的な「リスクコミュニケーション」にかかっている。
おわりに:食の安全を巡る新たな社会契約の構築に向けて
健康食品への微量エフェドリン混入事例は、公衆衛生上の危機ではなく、規制と社会認識の危機であった。それは、自らがもたらした技術的成功に適応できずにもがくシステムの姿を映し出している。今回の自主回収は、法的には必要であり、企業戦略としては賢明であったが、科学的には正当化されるものではない。この深刻な乖離は、ゼロ・トレランスを原則とする法律、超高感度の分析技術、そして紅麹問題で増幅された消費者の不安という3つの力が衝突した結果である。このままの道を歩み続ければ、経済的な浪費を生み、企業の技術革新を阻害し、そして皮肉なことに、実害のない「危機」が頻発することでかえって消費者の信頼を損なうという、持続不可能な未来に行き着くことは明らかである。
我々が進むべき道は、食の安全をめぐる新たな「社会契約」の構築である。この契約は、「ゼロリスク」という幻想ではなく、科学的なリスク評価という堅固な土台の上に築かれなければならない。そのためには、規制当局による法の現代化、産業界による最高水準の製造規範の受容、そしてメディアや消費者を含む全ての関係者が、「安全」が真に意味するものについて、誠実かつ知的に対話することが求められる。このエフェドリン混入問題を単なる一過性の騒動として記憶するのではなく、より合理的で、強靭で、そして信頼に足る食品安全ガバナンスを構築するための重要な契機としなければならない。
<プロフィール>
農学博士、獣医師。1964年東京大学農学部獣医学科卒業。テキサス大学ダラス医学研究所研究員を経て、87年に東京大学教授、同大学アイソトープ総合センター長を併任、2003年に名誉教授。日本毒科学会理事長、日本薬理学会理事、日本学術会議副会長、倉敷芸術科学大学学長、(公財)食の安全・安心財団理事長などを歴任。現在は食の信頼向上をめざす会代表。専門は薬理学、毒性学、食品安全、リスクコミュニケーション。瑞宝章(中綬章)、日本農学賞、読売農学賞、消費者庁消費者支援功労者表彰、食料産業特別貢献大賞など数々の賞を受賞。
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