山笠太郎の健康管理とほほ日記 ~不摂生な私が25年もスポーツクラブに通える理由~(17)【東京編(4)】
忘れては困る、太郎ちゃんは食品営業マンである
この頃の小生は「アラフォー」真っ只中、時は西暦2000年頃の事である。
気が付けば良く分からないまま何となく、避難場所的に大阪支社転勤前と同じ東京本社百貨店流通チームに異動させられた感じであった(汗)。
さて当時の百貨店業界はと言うと、「昔日の面影は何処へ…」とばかりに食品メーカーにとっても「売れない・返品多い・何故か経費は増える」で厳しい現実が待ち受けていた(汗)
バブル期までの百貨店というのは、例えて言うと、スーパーで特売品として198円でチラシに掲載、激安で売られている調味料が、少しの付加価値&容量変更と高級感のあるデザインを施し贈答ギフトとして百貨店の包装紙を纏わせる事により、198円の特売品が1,000円程度の見違える様な?高級品にと価値を高める事ができたのだ。
当時の絶好調だったお中元とお歳暮時期を踏まえ「1年14カ月、ガッポガッポと…」と嘯(うそぶ)く某トップシェアメーカーの営業統括役員さんがいて、個人的には「嫌みな野郎だぜ」とプチムカついていた(苦笑)。実際、派手に交際費も使っていた様だった。
歴史的に食品ギフトは法人需要に強かった。バブル期当時、嗜好品ギフトの最高峰に位置付けられていたタラバガニ缶詰め合わせギフトセットにおいては、羽振りの良い不動産業界の社長から「一番高うて1万円かぁ…10万円のタラバガニのセット作れへんかなぁ?500セット特注で!」と驚くべき依頼を受けた老舗百貨店もあった程だ(苦笑)
そんなバブル期を天井知らずのピークとすると、小生が在籍していた当時は目も当てられないほどの急下降曲線「落ち目の三度笠」状態であったのだ…(汗)
ただし、どんな不況時でも銀座のごく一部の超高級クラブがしぶとく生き延びていく様に、某老舗百貨店の象徴的店舗も、不況下でもビクともしない超富裕層の顧客に支えられていたのだった(笑)。そ~ゆ~方々は、いちいち店舗に行かなくても担当外商マンがサザエさんのサブちゃんの如くお醤油1本からでも御用聞きして届けてもらえるのだ(笑)
世間では余り知られていないが当時の頃までの百貨店(特に老舗百貨店)は、店頭販売と言うよりも、実は外商部門と建装部門に支えられていたのだった。
突然の辞令、「健康食品課長を命ず」
さてさて小生が延べ7年半程お付き合いした百貨店業界の面々の生態は…それはそれで「いとおかし」、もと~い「いとおかしい」面々でもあった。これはこれでいずれ「あんな事、こんな事」のエピソードをご紹介したい…と思っている(^_-)-☆
小生の上司からの指示で、(健康食品で培われた曲者営業を見込まれてか)当時ジワジワと伸びてきていた贈答品マーケットの隙間産業とも言えるギフト専門店チャネルへの拡販も担当する事となった。確かにギフト専門店の方々ってぇのは人種的には健康食品業界の面々と似てるっちゃぁ似ている…気がした(笑)
「ぶっちゃけ、ギフトセットの処分販売チャネルだよな…」と内心で毒づきつつも(笑)何ともつかみどころのない営業活動に地味に取組んでいた。
一方で、担当していた某電鉄系百貨店には、偶然にも駆け出し健康食品営業マン時代、担当取引先卸の栄養士の女子=三沢さん、さらにはビタミンEブームで荒稼ぎしていた某健康食品メーカーの営業主任が偶然にも転職していて、特に三沢さんは売り場のチーフを任されており、曲者揃いのおばちゃん販売員達を巧みに仕切っていた。
お酒大好きな三沢さんは「山笠さ~ん、商品部の桜坂バイヤーと今度呑む約束しているのですけど…来られます?」と商品部の担当バイヤーとの宴席をさり気なく仕組んでくれたりと、実に有難かった。
そんなボンヤリとした日々を(苦笑)1年半程過ごしていると突然「健康食品課長を命ず」の辞令が…。
当時の健康食品課は家庭用食品事業部に取り込まれていて、キャリア最晩年、役定間際のオジサン課長職の「最後はラインの課長で…」的な想い出作りポジションと化していた。
しかも小生が入社した年に新発売され、約10年粘り、ヒット商品となった調味料風健康食品にしぶとく支えられ、いつの間にか健康食品課は高収益を叩き出していたのだった。
(つづく)
<プロフィール>山笠太郎(やまがさ たろう)
三無主義全盛の中、怠惰な学生生活を5年間過ごした後、運良く大手食品メーカーに潜り込む。健康食品事業部に配属され、バブル期を挟み10年。その間に健康食品業界で培った山笠ワールドと言われる独自の世界観を確立。その後社内では様々な部門を渡り歩き47都道府県全ての地に足を踏み入れる事となる。